「別紙」の正体が、ついに明かされる
手紙の最後に、こう書かれていた。
「遺産についての別紙は、光一に財産を渡すためのものではありません。」
遥と孝子は顔を見合わせた。
「では、何のために……?」
その答えは、次のページに書かれていた。
「光一が遺産を狙っていることを、私は知っています。」
「そして、光一が私の書類を探していることも知っています。」
「だから、重要な書類は別の場所へ移しました。」
「もし光一がそれを探しているなら、見つけさせてください。」
遥は意味が分からなかった。
なぜ、わざと見つけさせるのか。
その答えは最後の一文だった。
「そこに書いてあるのは、財産の分け方ではありません。」
「光一自身が、自分の人生を取り戻すための条件です。」
遥は目を見開いた。
そして光一が現れる
その夜。
遥が家に戻ると、玄関の前に人影があった。
「……光一?」
男はゆっくり顔を上げた。
痩せていた。
以前の光一とは別人のようだった。
しかし、その目だけは昔と同じだった。
「遥……」
遥は警戒した。
「何しに来たの?」
「別紙を探してる」
やはり――。
遥は一歩下がった。
「お金が欲しいの?」
光一は黙った。
「答えて」
光一の告白――金では買えなかったもの
長い沈黙が続いていた。
遥は、目の前に座る光一を見つめていた。
かつての光一は、何事にも自分の都合を優先し、面倒なことから逃げ、困ったときには誰かに頼ればいいと考えているような男だった。
しかし、今、目の前にいる光一は違って見えた。
頬はこけ、目の下には深い疲れが刻まれている。以前のような自信に満ちた表情はなく、何かに追われ続けてきた人間のような、疲れ切った顔をしていた。
遥は、あえて何も聞かなかった。
光一自身の口から、すべてを話してほしかったからだ。
やがて、光一は重い口を開いた。
「……最初は、そうだった」
遥の胸が締め付けられた。
「最初は、金が欲しかった。自分の生活を立て直したかったし、これまでの失敗を取り戻したかった。久子伯母さんの遺産を手に入れれば、何もかもやり直せると思っていた」
光一は、テーブルの上に置かれた自分の手を見つめた。
「でも、今は違う」
「じゃあ、何が欲しいの?」
遥の問いに、光一はすぐには答えなかった。
何かを言おうとして、唇を動かす。しかし、言葉にならない。
金が欲しかった。
自由が欲しかった。
誰にも頭を下げず、自分の思い通りに生きられる生活が欲しかった。
だが、そうしたものを手に入れようとすればするほど、自分の周りから人がいなくなっていった。
気がつけば、金を追いかけることだけが人生の目的になっていた。
そして、そのために何を失ったのかさえ、考えなくなっていた。
光一は、ゆっくりとポケットに手を入れた。
取り出したのは、一枚の古びた紙だった。
久子の願いと、そして、光一の家族の中で生きて行きたいという願い
「これを見つけたんだ」
遥は、その紙を受け取った。
端は破れ、何度も折り畳まれた跡がある。紙の一部は薄く黄ばんでいた。
それは、久子の日記の切れ端だった。
遥は、そこに書かれた文字を見た瞬間、息をのんだ。
――「光一を責めないでほしい。」
わずか一行だった。
しかし、その文字には、久子の人柄がそのまま表れているようだった。
「これ……伯母さんの字ね」
「ああ」
光一の声がかすれた。
「俺は、ずっと伯母さんの財産のことばかり考えていた。どうすれば遺言の内容を知ることができるか。どうすれば自分の取り分を増やせるか。別紙があると知ってからは、それを見つけることしか頭になかった」
光一は、苦しそうに目を閉じた。
「実は、伯母さんの書類を盗もうとしたこともある。誰にも知られないように探し回った。別紙を見つければ、何か自分に有利なことが書いてあるんじゃないかと思ったんだ」
遥は黙って聞いていた。
「遺産を増やすためなら、どんなことでもできると思っていた。人を利用することも、嘘をつくことも、平気になっていた。最初は、ほんの少しの金があればいいと思っていたのに、一度手に入れると、もっと欲しくなった。これだけでは足りない。まだ取り戻せる。そう考えて、また次のことに手を出した」
光一の声は、次第に弱くなっていった。
「でも、結局、何も変わらなかった」
彼は自嘲するように笑った。
「金を手に入れても、安心なんかできなかった。誰かに知られるんじゃないか、追い詰められるんじゃないかと、毎日びくびくしていた。夜になっても眠れない。電話が鳴れば、誰かに追われているんじゃないかと思う。人の顔を見ても、そいつが自分を利用しようとしているようにしか見えなくなった」
光一は、両手で顔を覆った。
「気がついたら、俺の周りには誰もいなかった」
しばらくして、彼は顔を上げた。
「遥、お前には分からないかもしれない。でも、俺は本当は、こんな人間になりたかったわけじゃないんだ」
「……」
「家族と普通に暮らして、たまにはみんなで食事をして、何でもない話をして笑う。そんなことが、昔は当たり前だったじゃないか」
その言葉を聞いて、遥の胸にも幼い頃の記憶がよみがえった。
何も心配することのなかった頃。
家族が集まり、笑い声が絶えなかった頃。
光一も、その中にいた。
「俺は、そこに戻りたかったんだ」
光一は、絞り出すように言った。
「金があれば、失ったものを取り戻せると思っていた。でも、違った。金を追いかけている間に、俺は自分から家族を捨てていたんだ」
そして、光一は再び手元の紙に目を落とした。
「伯母さんが死んでから分かった。俺が欲しかったのは、金じゃなかったんだ」
少し間を置いて、彼は言った。
「俺は……戻りたかったんだ。何もなかった頃の自分に。みんなが俺を家族として見てくれていた、あの頃に」
その言葉には、もう強がりも言い訳もなかった。
初めて、光一の口から本当の言葉が出たのだった。
久子の最後の願い――遺産よりも大切なもの
遥は、しばらく光一を見つめていた。
そして、静かに一通の手紙を取り出した。
「これを読んでみて」
それは、久子が残した最後の手紙だった。
光一は、すぐには受け取ろうとしなかった。
「俺が読んでもいいのか?」
「伯母さんは、あなたにも読んでほしかったと思う」
遥は、手紙を光一の前に置いた。
光一は震える手でそれを開いた。
久子の文字は、ところどころかすれていた。病気と闘いながら書いたのか、文字の大きさも不揃いだった。
それでも、一文字一文字に、確かな思いが込められていた。
光一は、ゆっくりと読み始めた。
そこには、家族への感謝や、これからの人生を大切にしてほしいという願いが記されていた。
そして、光一についても書かれていた。
――光一のことを、私は心配しています。
――あの子は、間違った道に進んでしまったのかもしれません。でも、私は、あの子が本当に悪い人間になってしまったとは思いたくありません。
――人は、どこかで間違えることがあります。大切なのは、その間違いに気づき、もう一度やり直そうとすることです。
光一の目が、文字の上で止まった。
自分がどれほど久子を裏切っていたのか。
どれほど彼女の思いを踏みにじっていたのか。
それを考えると、もう先を読むことができなかった。
しかし、最後まで読まなければならないと思った。
そして、手紙の最後の一文に目を止めた。
――「光一が戻ってきたら、財産ではなく、家族を渡してあげてください。」
光一の手が止まった。
「……伯母さん」
かすれた声が漏れた。
その瞬間、目から大粒の涙が落ちた。
涙は手紙の上に落ち、久子の文字をにじませた。
「なんでだよ……」
光一は、誰に向かって言うでもなく呟いた。
「なんで、こんな俺のことまで……」
自分は、久子の財産を奪おうとした。
久子が残したものを探し回り、少しでも自分に有利なものを見つけようとしていた。
その久子が、最後まで自分を心配していた。
責めるどころか、戻ってくることを願っていた。
自分が失ったものを、久子はまだ失っていなかったのだ。
光一は、手紙を胸に押し当てた。
「俺は……伯母さんに、何をしたんだ」
言葉の続きは出なかった。
彼はその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
肩が大きく震えていた。
それまで誰にも見せなかった涙だった。
自分の過ちを認めることも、誰かに助けを求めることもできず、ずっと強がって生きてきた男が、ようやく自分の弱さをさらけ出した瞬間だった。
遥は、すぐには近づかなかった。
慰めの言葉をかけることもできなかった。
光一が流している涙は、単に久子を失った悲しみだけではない。
自分自身が壊してしまった人生への後悔であり、もう二度と戻らない時間への悔しさでもあった。
長い時間が流れた。
やがて、光一の嗚咽が少しずつ静まっていった。
