家族からの、最後の電話
ある夜、光一は電源を切っていた携帯電話を、久しぶりに起動した。
未読のメッセージがいくつも並んでいた。
その中に、父からのものがあった。
「どこにいてもいい。生きているなら、それだけでいいから連絡しろ」
短い文章だった。
光一はしばらく画面を見つめていた。
指が、返信ボタンの上で止まった。
「ごめん」
そう入力した。
しかし、送信できなかった。
しばらくして、その文字を全部消した。
そして、再び携帯電話の電源を切った。
もう引き返せない、新しい仕事に取り掛かる
その夜、光一は黒田から新しい仕事を頼まれていた。
これまでより、明らかに危険な仕事だった。
「今度は、ちょっと金になる」
黒田はそう言った。
光一は黙っていた。
以前なら、少しは怖かっただろう。
だが、その夜の光一には、以前ほどのためらいがなかった。
「いくらになる?」
そう聞いた。
黒田が金額を告げる。
光一は小さくうなずいた。
「やるよ」
その言葉を口にした瞬間、光一自身も気づいていた。
もう、以前の自分には戻れないかもしれない。
だが、それでも構わなかった。
家族から逃げたつもりだった。
借金から逃げたつもりだった。
失敗した人生から逃げたつもりだった。
しかし実際には、光一は逃げれば逃げるほど、自分自身の中にある弱さと向き合わなければならなくなっていた。
そして、その弱さにつけ込んだ人間たちが、暗闇の中で待っていた。
光一は、その暗闇へ、自分の足で一歩を踏み出した。
それが、主体的に悪の道へ踏み込んだ最初の一歩だった。
しかし、光一は悪の世界を忘れたように、普通の社会人のように生活
それから数年が過ぎた。
光一は、以前のように荒れた服装をすることもなくなった。
髪も整え、シャツにジャケットを着て、街を歩いていた。
一見すれば、どこにでもいる普通の会社員だった。
朝になれば電車に乗り、駅前のコンビニでコーヒーを買う。
昼には普通の店で食事をし、仕事帰りにはスーパーに立ち寄る。
休日には一人で街を歩き、時には喫茶店で本を読んでいることもあった。
誰が見ても、少し疲れた普通の男だった。
以前の光一を知る人間が見ても、まさか彼が今も暗い世界とつながっているとは思わないだろう。
むしろ、
「最近は、落ち着いたみたいだな」
そう思うかもしれなかった。
しかし、表面が変わっただけだった。
光一は、悪の世界から抜け出したわけではなかった。
むしろ、以前より深く入り込んでいた。
ただ、やり方が変わったのである。
怒鳴ったり、乱暴な態度を取ったりする必要はなくなった。
危険な人間たちとも、必要以上に親しくすることはない。
電話で短い言葉を交わし、指定された場所へ行き、頼まれたことを淡々と処理する。
そして、何事もなかったように普通の生活へ戻っていく。
光一は、いつの間にかその切り替えができるようになっていた。
ある夜、仕事を終えた光一は、駅前の小さな居酒屋に入った。
カウンターで一人、酒を飲んでいると、隣の席の男が話しかけてきた。
「お仕事、何されてるんですか?」
光一は少し笑った。
「普通の会社員ですよ」
嘘だった。
しかし、その嘘を口にすることに、もう何の抵抗もなかった。
男はそれ以上、何も聞かなかった。
光一も、普通の会社員らしく仕事の愚痴を少し話した。
給料のこと。
会社の上司のこと。
電車が混んでいること。
どこにでもあるような話だった。
男は笑い、光一も笑った。
その瞬間だけを見れば、二人はただの会社員同士にしか見えなかった。
店を出た光一は、一人で夜道を歩いた。
悪の世界にどっぷりつかった光一の日常が淡々と流れる
スマートフォンが震えた。
画面には、登録していない番号が表示されていた。
光一は周囲を確認してから電話に出た。
「……俺だ」
電話の向こうから、短い指示があった。
光一は黙って聞いていた。
「分かった」
それだけ言って電話を切った。
そして、何事もなかったようにスマートフォンをポケットに戻した。
再び歩き始める。
街には大勢の人間がいた。
会社帰りのサラリーマン。
買い物帰りの主婦。
友人と笑いながら歩く若者。
誰も光一を気に留めない。
光一も、彼らと同じ顔をして歩いていた。
普通の人間の中に混ざり、普通の人間として生きている。
しかし、その内側には、かつて家族から逃げ、借金から逃げ、そして最後には自分自身から逃げた男がいた。
光一はもう、悪の世界を恐れてはいなかった。
そこが自分の居場所だとも思っていた。
それでいて、表の世界を捨てるつもりもなかった。
普通に働き、普通に食事をし、普通に笑う。
そして必要な時だけ、もう一つの世界に戻る。
二つの世界を行き来することが、いつの間にか光一の日常になっていた。
家族にはアパートの住所を教えていたが、連絡を取ることもなかった。
父も、母も亡くなっていて、妹が時々電話して伝言しても電話することはなかった。
ただ一つだけ、家族の誰も気づいていないことがあった。
光一は消えたのではなかった。
姿を変えただけだった。
かつては、家族から見ても問題を抱えた男だった。
今は違う。
街の中に自然に溶け込み、誰からも疑われない。
そして、そのことこそが、光一にとって最も危険な変化だった。
悪の世界にいる人間に見えないこと。
普通の人間として受け入れられること。
それが、光一にとって新しい力になっていた。
もう、光一は暗闇の中だけにいる人間ではなかった。
光一は、光の当たる普通の世界の中に入り込んでいた。
そして、その世界の中で、誰にも知られないまま生き続けていた。
