そして、高田家にはもう一人、忘れてはならない人物がいた。
次女の孝子である。
久子と隆の次に生まれた孝子は、姉ほど目立つ存在ではなかった。
子どもの頃から、何かにつけて久子と比べられることが多かった。
久子は勉強ができた。
学校ではいつも成績がよく、先生からも期待されていた。大人になってからも仕事を覚えるのが早く、難しい仕事を任されるようになった。
一方、孝子は、姉のように何でも一人でこなすタイプではなかった。
勉強も人並みだった。
特別に目立つ才能があったわけでもない。
だからといって、孝子が自分の人生に不満を持っていたわけではなかった。
むしろ孝子は、早くから自分がどんな人生を歩みたいのかを、ぼんやりと分かっていたのかもしれない。
「私は、普通でいい」
それが孝子の人生のどこかに、いつもあった。
やがて孝子は松山誠一と結婚した。
誠一も仕事を持ち、二人は共働きで家庭を築いていった。
子どもが生まれると、孝子の生活は一気に忙しくなった。
朝は子どもを起こし、朝食を作る。
仕事に出かけ、帰ってくれば夕食の支度。
子どもの学校のことを気にし、夫の帰りを待ち、休日には家族で買い物に出かける。
特別なことは何もない。
けれど、孝子にとっては、その「何もない毎日」こそが大切だった。
家族で食卓を囲む。
子どもの話を聞く。
夫婦でくだらないことで笑う。
疲れている日は、夕食を簡単なもので済ませる。
そんな日々の積み重ねが、孝子にとっての幸せだった。
隆の家が少し騒がしく、光子の強い個性に引っ張られるようにして家庭が動いていたのに対し、孝子の家庭には、どこか静かな安定感があった。
大きな成功もない。
大きな失敗もない。
夫婦で働き、子どもを育て、住宅ローンを払い、季節が来れば家族で出かける。
どこにでもありそうな、ごく普通の家庭。
しかし、その「普通」を手に入れることも、決して簡単なことではなかった。
孝子は、そのことを知っていた。
だからこそ、姉の久子を見ると、時々、胸の奥に小さな引っ掛かりを感じることがあった。
久子は、自分とはまるで違う人生を歩いている。
仕事の話をするときの姉は、生き生きとしていた。
責任のある仕事を任され、周囲から頼りにされている。
「久子姉さんはすごいね」
孝子は何度もそう言った。
久子は、そのたびに少し笑った。
「そんなことないよ。仕事してるだけだから」
その言葉を聞くと、孝子はいつも思った。
姉は本当に仕事が好きなのだ。
だから、結婚しないことも、家庭を持たないことも、本人が選んだ人生なのだ。
そう思っていた。
けれど、本当は違ったのかもしれない。
ある時、孝子は久子に何気なく聞いたことがあった。
「お姉ちゃん、結婚しないの?」
久子は少し黙ってから笑った。
「今さら無理じゃない?」
その言い方が、孝子には少しだけ気になった。
冗談なのか、本音なのか分からなかった。
「そんなことないよ」
孝子がそう返すと、久子は、
「孝子はいいよね」
と言った。
「何が?」
「家族がいて」
その一言を聞いたとき、孝子は少し驚いた。
けれど、久子はすぐに話題を変えた。
「そういえば、子どもたちは元気?」
孝子も、それ以上は聞かなかった。
今思えば、あのとき、もう少し聞いておけばよかったのかもしれない。
「お姉ちゃんは、本当はどうしたいの?」
そう聞いていたら、何かが変わっていたのだろうか。
けれど、そのときの孝子には、そんなことを考える余裕はなかった。
自分の家庭にも生活がある。
子どもの学校のこと。
夫の仕事のこと。
自分自身の仕事のこと。
毎日は忙しく、目の前のことで精一杯だった。
久子は姉であり、しっかり者だった。
困ったことがあれば自分で何とかする。
弱音を吐くこともない。
だから孝子は、いつしか久子を「心配しなくても大丈夫な人」と思うようになっていた。
それは、久子自身が長い年月をかけて作り上げた姿でもあった。
人に頼らない。
人に迷惑をかけない。
弱いところを見せない。
仕事をきちんとこなす。
そして、何も言わずに自分の人生を歩いていく。
孝子は、そんな姉を尊敬していた。
同時に、少しだけ羨ましくもあった。
自分にはできないことを、姉は簡単にやっているように見えたからだ。
しかし、姉の心の中に何があるのかまでは、孝子には分からなかった。
姉妹だからといって、何でも分かるわけではない。
むしろ、近い関係だからこそ、聞かなくても分かると思ってしまう。
それが、一番危ういことなのかもしれなかった。
